セルフワークの記録(村娘時代のサイキックアタック浄化→真実の愛の理解へ)

タイトルだけだと訳わからんなと自分でも思う。


私は大テーマとして、かなりの頻度で自己虐待というか、ふとした拍子に嫌悪するもの(排水口とか…)を脳内で反芻して自分を戒める癖があります。これも複層的要因であり、1つ1つ解決する事がセルフワーク向上に役立つので第一希望として持ってるっぽいのですが。今回もその一環です。


まず見ると、村人に寄ってたかってボッコボコにされている村娘の姿。当時盗みを常習的に働いてリンチされていたらしい(しかも鶏とか結構生活に重要なものをまるっと…)。大テーマの原因、これまでは呪いとか契約が多かったのですが、今回は「サイキックアタック」と来た。何故これが現世の私のこの問題につながるのか不明でしたが、先に進むに連れて分かると創造主に言われたので続行。


するとチラッと見えた親の姿。あまり親に愛された実感が無く、盗みをするのも家族の暮らしのため、という自覚があったらしい。結構ボロボロだったのでマイティで包んであげたり、エーテル体の補修かけたり色々した。ここで「どんな形でも、かまわれてるのは愛の一環」というヤバめな信念浮上。無関心よりも、肉体的にも精神的にも痛めつけられる方が愛に近い、と思っていたようで。


そして現世の自分の信念ともオーバーラップしている姿が見える。私自身は「どんな形でも」とは思わないけれど(DVとか許せないし)、「かまわれているのは愛の一環」に関してはその通りだと思ってました。なので「愛」の定義を創造主のそれと一致。「他人と自分自身からの、自分への尊重」と来る。そっか尊重を持って構ってもらえるのは愛があるけど、それ無しは時に暴力なのか。村人にボッコって愛ないよねえ?と聞いたら「うん、無いんだね」と納得してくれたようで。信念の引き抜きを実行し、サイキックアタックの浄化。自分から光が発せられて、その領域がどんどん膨らんでいくのが見える。。上手く言えないけど、不思議な安堵感が自分にも同時に広がる。


要は当時のサイキックアタックを愛だと認識していて、それを現世的な方法(嫌なものを反芻しちゃう)で繰り返していた、という展開でした。こういうパターンもあるんやな。勉強になりますわ。


あと一つ気づいたのは、創造主の定義・観点との一致って1回で完結するとは限らないってこと。実はこれまで何度か「愛」に関してはやってるんだけども、その時のイシューに合わせた気づきがもたらされるみたいですね。


反芻、に関しては徐々に「やらなくても大丈夫」と健全な方向に進んでおります。あともう一息くらい!がんばります。



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